旅の仕方について/中世古文書とヒマラヤの旅の共通点 … 旅・WanderVogel
2014-12-09


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と、論じている。(『歴博』No.124 特集「中世の消費」より)

これらの記述を見ると、日本の中世の「旅」の仕方や料金体制が、僕らが想像していたよりもかなりシステマチックで現代のものに近かったことが分かり非常に面白い。


その宿泊代のくだりで思い出したのが、僕が最初に中近東からネパールへと渡った1979〜1980年頃のヒマラヤの山街道での宿泊システムと全く同じだったことだ。

ブータン・シッキムからネパール・インド・パキスタン・アフガニスタンへと延々と続くヒマラヤ山脈に縦横に走る「山街道」は、山に登るための登山道と言うよりは、地元の人たちが日常的に使っている「交易路」を僕たちも使って歩いていることになる。

その「路」は、チベット高原からヒマラヤを越えていくつもの交易路(シルクロード)として複雑に絡み合って伸びている。

ネパールヒマールだけでなく、タクラマカン砂漠からヒマラヤを越えフンザ・ギルギットへと向かう路も、ヒンドゥークシュ山脈を越えてアフガニスタンへと向かう路も、パミール高原を越えてタジキスタンに向かう路もみな「交易」が目的で(アレクサンダー遠征以前から)延々と使われてきた「路」です。

そこでは上記のように、朝食と夕食をその宿で取ることを引き換えに宿代は取らない、というシステムが古くから出来上がっていたように感じます。

もしかすると、平城京・平安京の時代から、中国の唐を経由しチベット高原やタクラマカン砂漠を越えて中近東を経てローマへと続く「シルクロード」の隊商宿はじつはそういう旅のシステムで統一されていて、日本の街道の宿も同じように、、、なんて想像すると何だかとても楽しくなってきます。


チベット高原の宿にも、タクラマカン砂漠の隊商宿にも、ネパールやヒンドゥークシュのバッティ(隊商宿)にも、アフガニスタンやイランの砂漠に建つ古びた隊商宿(キャラバンサライ)にも泊まった経験があるのだが、そう思ってみるとなんとも納得がいくから不思議なものだ。


ただし、2度目、3度目とヒマラヤに通う間に「宿代」という名目での支払いが出てきたので、「今は昔の」話しになってしまったが、、、
つづく…


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