旅の仕方について/中世古文書とヒマラヤの旅の共通点 … 旅・WanderVogel
2014-12-09


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ずいぶん古い写真である。今から30数年前に行った 1ヶ月以上に及ぶ山行・ヒマラヤ奥地を旅した時に撮った1枚だ。

ヒマラヤの奥地、チベット族の住む村には村の入口にはこういった門構えが必ずあって、そこをくぐって村に入る(あるいは村から出る)つくりになっている。
この門が結界の役割をしているのだろう。門の中には両側にマニ車が備え付けられていて、天井はドーム型に木組みされ花々の彩色が施されていた。


先日、net検索で歴博(千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館)の資料の中に「永禄六年北国下り 遣足帳(けんそくちょう)」という古文書を解説したもの(論文)を偶然見つけた。
これは京都に住むある僧侶が、永禄六年(1563年)の秋から翌年の冬までの1年以上に及んだ北国の旅で付けていた日記帳(支出報告書)のようなものだ。
時代的に1500年代後半と言えば、室町後期の戦国時代から安土桃山時代へと移行していく激動の時代だ。

この僧侶、旅の目的は定かでないらしいのですが、京都市伏見の醍醐寺を出発して日本海沿いに北上し、今の山形県南部を周り太平洋岸に出たあと再度日本海側に廻り込み、復路は途中の越中から飛騨に抜け下呂温泉から関ヶ原・琵琶湖を経由して京都に戻るというロングトレイルをしている。
足跡はそれだけでなく、途中 越後府中から信濃善光寺を往復したり、三国峠を越えて沼田を往復したり、とけっこうあちこちに寄り道をしている。

その旅の収支の記録が、今にちゃんと残っているのはかなり珍しいことなのだと思います。

何にいくら払ったか、どのようなペースで歩き通しているかなど、つぶさに記録されているのがとても興味深い。

(論文でも言及されているように)その内容からは、お金さえ払えば宿泊や食事ができるという中世後期の旅行システムの充実ぶりや、旅籠(はたご)に支払うのが 朝食代と夕食代のみであるといった、当時の旅の様々な側面が明らかになってくる。


なかでも目を引いたのが、旅籠(はたご)の宿泊料金(ホテル代)のしくみです。
以下はその内容を論じている箇所ですが、一文=100円換算でイメージしてみると分かり易いと思う。

…前略…
宿泊料金だが、近江から越後までの下りは、一泊四八文でほぼ一貫している。この旅は二人連れと思われるため、一人あたりなら二四文。そしてその内訳は、夕食代と朝食代一二文ずつである。(先述の東寺の記録の場合も全く同じであり、)宿泊料金は夕食代と朝食代で計算され、食事をとらなかった分はちゃんと減額されている。宿泊代が食事代のみということは、当時の宿がどういうものか、だいたい想像がつく。
食事は一人ずつ、 おそらく折敷(おしき)か何かにのって出てくるが、部屋は専有せず、大きな相部屋で、夜具や風呂も提供されない、ということになるだろう。
…略…
 昼食は、ほぼ必ずとっている。昼食をとるようになるのは近世から、とよく言われるが、体力を使う旅行の場合という面はあるにしても、必ずしもそうではないことがわかる。
昼食代は一定はしていないが、二〇文前後、すなわち一人一〇文前後のことが多い。
…略…
 この他、酒もよく飲んでいる。今の清酒のような精製度の高いものではないだろうから、エネルギー補給のためとも言えるが、東寺の記録ではほとんど酒を飲みに行ったのではないかと思われるようなほどよく飲んでいるし、「出立ち酒」「落ち着きの酒」など、何かにつけて儀礼的にも飲んでいる。
…略…
 道の険しいところなどでは馬が使われており、「駄賃」の記載もかなりある。正確な距離あたりの単価を出すのは難しいが、およそは距離に比例しているようであり、恒常的なサービスとして、やはり相場的な料金があったものと思われる。船賃の場合にも同じことが言えるし、また川の渡しでは、越前の三国湊(九頭竜川)、加賀の湊川、越中の神通川・常願寺川がそれぞれ一人四文と見なせ、広域的な共通性が認められる。
…後略…

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