テレビで見るラサのチベット建築・歴史地区の惨状
2008-04-03


僕が初めてチベットの首都ラサに行ったのは1983年の初夏だった。そのころ中国国内の外国人個人旅行はかなり制限されていて、もちろん民間人の家や民宿に泊まることは禁止されていた。外国人は政府指定の外国人専用のホテルにしか正式には宿泊できなかったが、僕は個人での貧乏旅行だったので泊まるのはもっぱら民宿レベルの宿だった。
流通するお金も2種類あって、外国人が使える「兌換券」と呼ばれるお金と庶民の使う「人民元」の2種類あった。都市部のホテルやレストランでは「兌換券」しか通用しないし、銀行などの両替で手に入るのは「兌換券」しかなかった。もともと外国人が「人民元」を使うという前提がないからだ。
しかし地方の民宿や町の小さな食堂では逆に「人民元」しか通用しない。一種の闇両替?のようなことで人民元を手に入れるのである。町の小さな食堂ではこの人民元のほかに、料理に使用される小麦粉の量に応じてマイピョウ「毎票」とよばれる配給票が別に必要であった。これだけは回りにいる地元の人から分けてもらうしか手はなかった。
成都(チョンドゥ)に着いた時に公安局(ビザの延長のため旅行中たびたび訪れていた)でラサが準開放都市になったことを聞かされた。準開放都市になれば手続きは非常に煩雑であるが滞在許可書を入手することが出来る。急いで公安局でパーミッションの申請をし、中国国内航空に予約に走った。
チベット高原は海抜3000m以上ときわめて標高が高い。中国国内航空の2発のレシプロ機はかなりの振動と騒音を発しながらラサ郊外の河原に造られた砂利の滑走路に降り立った。ラサには今のように漢民族の姿は少なかった。というより役所以外には町中ではあまり目につかなかった。しかしその時でもラサ中心のジョカン寺(大昭寺、だいしょうじ)周辺の歴史的門前町で民家など古い文化財級の建物・地区の組織的破壊が始まろうとしていた。今考えると文化的粛清の始まりの年だったのである。建築を見に行っている者にとって目の前でどんどん破壊が始まっている町の姿を見るのはとても辛い。
このところテレビで流れるラサ市内の状況を見ると、そこに写っている町の姿はもう僕の歩いた「ラサ」の町ではなかった。まったく違う姿になっていた。チベット人が数世紀にわたって育み、作り上げてきた町が漢民族の組織的破壊によってその姿を変えてしまっていた。テレビを観ていて彼らの精神のよって立つ「根っこ」が無くなってしまうのではないかと悲しくなった。彼らがデモという手段に訴えてもチベットの置かれている窮状を世界に発したかったその気持ちは僕にはほんとうに良く解る。
僕はその後インド北部のダラムサラでダライラマ14世の説法を直接聞く機会に恵まれたが、一刻も早く「チベット」がチベット民族の手に戻ることを祈らずにはいられない。
[Art/建築]
[旅/Backpacker]

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