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写真:1979年12月、カイバル峠を越え、パキスタン・ペシャワールに無事に到着し、市内の穀物バザールでのスナップ。チャールポイに座り現地の人たちに囲まれながらチャイをごちそうになっているところ。カブールで買った皮の長靴を履いている。
ペシャワールはペルシャ語で「高地の砦」の意味。カイバル峠(標高1,070m)からはわずか50kmの地点にある紀元前から栄えてきたシルクロードの要衝であり、ガンダーラ地方の中心地である。カニシカ王で有名なクシャナ朝の時代プルシャプラと呼ばれた古都。
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ソ連軍による軍事介入から現在に至るまでのアフガニスタン国内の混乱の歴史は、様々なメディア・ニュースなどで報道されているように、さらに混迷の度合いを色濃くしていくことになる。
1979年以降、ムジャヒディン(ジハード/聖戦を遂行する者)諸派はパキスタン軍統合情報局などからの支援を受けて、共産主義政権とソ連軍に対し激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャヒディンには、イスラム世界の各地から志願兵として多くの若者が集まってきたが、その中にはあの有名なオサマ・ビン・ラディンもいた。
実は、アメリカ合衆国もCIAを通じてムジャヒディンに武器や装備、活動資金をパキスタン経由で極秘に提供していた。また、ムジャヒディンはパキスタンと仲の良い中国からも武器や訓練で援助を受けていた。これは中国とインドが対立していた関係で、インドと領土問題で火種を抱えるパキスタンが中国と友好関係を維持していたことによる。まさしく「敵の敵は味方」の論理である。
1988年にソ連軍が撤退を開始すると、ムジャヒディン各派はアフガニスタンでの主導権争いで対立、軍閥化していった。
ムジャヒディンを支援していたパキスタン軍統合情報局が支援先をタリバンに変更すると、対立していたムジャヒディンの諸派は今度は連合し北部同盟としてこれに対抗した。
というように、個々の利益にのみ関心を示し烏合集散を繰り返すどこぞの国の野党諸派と同じように、もう何が何だかかわからないグチャグチャぶりで、さらにわけの解らない状況が続くことになる。
ソ連軍完全撤退後の1992年にアフガニスタンの共産主義政権が崩壊すると、カブールは一時ムジャヒディンの手に落ち、その後タリバンがそれに取って代わった。タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)期も引き続き首都は一応カブールとされたが、政治の中心はパシュトゥーン人主体のタリバンにとっての本拠地である南部のカンダハルだった。
タリバンは厳格なイスラム法の遵守を強要するだけでなく、文化浄化(積極的な文化財破壊行為)も行っている。2001年3月、タリバンはバーミアンの大仏像の足元に爆弾を仕掛け爆発させ、大仏像はがれきの山と化した。バーミヤン渓谷の岩肌を掘り込んで造られた大仏像は、一帯がシルクロードの中継地としてにぎわっていた6世紀ころから建造が始まったとされる、アフガニスタンの人々だけでなく全人類に取っても貴重な文化的遺産だった。
タリバンはこの貴重な大仏像を含む数多くの文化遺産を破壊し尽くし、さらにその様子を全世界に映像配信するという暴挙までも行なっている。
ユネスコは仏像の周りの岩壁に残る壁画で装飾された洞窟群と、仏教寺院を含むバーミヤン渓谷全体を2003年に世界遺産に登録したが、遺跡は壊滅的な被害を受けていて、大仏像のみならず石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。
2001年に入ると今度はアメリカがアフガニスタンに侵攻することになる。発端は2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロだ。
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